2026年01月07日

明治初期の安針塚!?

新年明けましておめでとうございます。
ここン年、ほぼコミケの告知だけとなってしまった当ブログですが、今年こそは少しでも他の記事も増やそうと頑張ってみようと思います。

というわけで、2026年初記事は久しぶりの昔の横須賀関連で投稿。まずは写真を御覧ください。

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これは横須賀市の塚山公園にある安針塚、三浦按針の墓と伝えられますが、実際は埋葬墓ではなく供養塔らしいですね。
三浦按針(本名ウィリアム・アダムズ)は、徳川家康の政治・外交顧問として仕え、現在の逸見町周辺に領地を持っていたことから、彼の没後この地に供養塔が建立されたのでしょう。向かって右が按針の墓で、左がその妻の墓となります。
さて、この安針塚。アダムズが亡くなった1620年から間もなくして、彼の遺言によってこの地に建てられたと伝えられますが、江戸時代を経て明治となった1870年頃になると、墓所に詣でる人もほとんどおらず荒廃していたようです。
そんな忘れられた安針塚ですが、幕末に開港した横浜の居留地のイギリス人を中心に、1872(明治5)年頃から日本におけるアダムスの痕跡探しが始まり、再び注目されることとなります。なかでも横浜で貿易商を営むジェームス・ウォルタースは、発見した安針塚とその周辺の荒廃した現状を嘆き、度々訪れては私費を投じて修復をしていたそうです。1874(明治7)年、そのことを知った当時横須賀にあった富士山ホテルの経営者、安西善六は50円(現在の約200万円相当)もの資金を提供し、ウォルタースの修復活動を支援したといいます。

前置きが長くなりました、そこで今回の本命となる写真です。

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これは去年、フランスの業者から売りに出た彩色鶏卵写真ですが、見ての通り安針塚を正面から撮った写真ですね。だがよく見てください、按針と妻の供養塔の位置が逆、右の石灯籠は火袋部分が無くなっていたりと、どうも今の安針塚とは様子が異なっています。
特に注目すべきは右奥に設置された墓碑?でしょうか、読みにくいですが拡大すると上の方に〜

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W.ADAMS TOMB - W アダムスの墓
RENOVATED Jani 187? - 187?年1月改装
残念ながら最後の一桁が石灯籠に隠れて見えませんが1870年代に改装された三浦按針の墓とわかりますね。石碑の下の方にはin charge(改装責任者)として安西善六(ともう1人は不詳)の名前が確認できます。
ということは……もうおわかりでしょうが、これは1874(明治7)年に安西善六が資金提供してウォルタースとともに改装した安針塚の写真という可能性が高そうなのです。おそらく見えない一桁の数字は5で、翌年の1875(明治8)年1月改装と彫られているのかもしれません。
なおこの墓碑ですが、私の知る限り今の塚山公園で見つからないのですが一体どこに置かれているのか……もし知っている方がいましたらコメント欄にでも書いて頂ければ幸いです。

その後、安針塚は幾度かに渡って改装されますが、1902(明治35)年に日英同盟が締結されたことを契機に大改修が行われ、1906(明治39)年12月に現在の塚山公園の原型が誕生しました。この大改修で土台の石積みや供養塔の位置(改修前は葉山方向を向いていたらしい)が今のように変わったのでしょう。

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というわけで、新年ひとつめの投稿はひょっとすると貴重かもしれない?明治初期に改装されたと思われる安針塚の写真を紹介してみました。この調子で最低月イチくらいで何か記事を投稿出来れば良いけれどなぁ。
posted by acj@管理人 at 13:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 横須賀の歴史

2021年03月26日

空襲の爪痕

今日は1枚の写真を少しだけ深堀りしてみましょう。

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一見すると何かの建物を取り壊した跡地に見えますが、写真の裏書きには「Bomb Damage」の文字があり、実はこれ……横須賀空襲で破壊された市街地を撮った、今となっては貴重な1枚らしいのです。
終戦直前の1945年夏、連合軍による日本本土空襲の一環として、横須賀軍港の施設や停泊艦艇を目標とした大規模な空襲が7月に実施されました。この空襲によって軍港内の工場や停泊する戦艦長門などが被害を受けましたが、一部の爆弾は軍港外の市街地にも着弾して、周辺の民間地にも被害を与えています。
上の写真は、空襲による火災で焼失した民家を、終戦直後に進駐した連合軍兵士が撮ったものですが、よく見ていくと意外な所に被害場所を特定するヒントが隠されていました。

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まず画面中央左寄り、電柱の横に見えている「千歳旅館」の文字ですが、これは現在の大滝町1丁目5〜7番地にかつて存在した旅館です。
これだけで既に大方の場所特定は完了したも同然ですが、さらに見ていくと……。

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電柱右側の奥、赤矢印の建物ですが。これは現地を歩いて今も残っていることが判明しました。

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これが現在の写真。中央の四角い建物の左側2階上の部分が、白黒写真で見えてる部分と一致しています。

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拡大するとこの部分ですね。

というわけで、写真から見たこの建物の角度から撮影位置を割り出すと……。

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現在は奥が見通せないため、正確な撮影位置は割り出せませんでしたが、当時の撮影者はだいたいこの角度で撮ったように思われます。ちなみに写っている店の建物はどちらも1960年代には存在していた古い建物なのですが、少なくとも終戦後に建てられたことは判明したことになります。

Google地図で見ると、画面中央の建物がごちゃごちゃしている一帯が、終戦直前の空襲で破壊されたことになります。

横須賀空襲における民間地区の被害状況は、損害が(東京や横浜に比べると)比較的軽微だったこともあるせいか、詳細な記録があまり見つからないのですが、このように実際に爆弾の落ちた場所が特定されるのは、非常に珍しいケースかもしれません。
ちなみに空襲による民間地の被害は、他にも現在の横須賀隧道付近に爆弾が落ちたという証言も残っていたりと、米軍機の機銃掃射による流れ弾なども入れれば、もっと多くの爪痕が見つかると思われます。
posted by acj@管理人 at 09:00| Comment(1) | TrackBack(0) | 横須賀の歴史

2018年12月21日

消えた川の痕跡を探して

先日、かつての東浦賀道を歩いていたら、こんな古い橋の欄干跡を見つけました。

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欄干の場所はこの辺り、横須賀の三春町4丁目と大津町1丁目の境界付近で、かつてこの道路は東浦賀道と呼ばれ、明治時代は道の北側、国道16号のあたりが海岸線になっていたそうです。

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周辺を見たところ、川自体はかなり昔に埋め立てられ道路となったようですが、この一画だけぽつんと欄干と石垣だけが取り残され、かつて川が流れていた様子を窺い知ることが出来ます。

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欄干に掘られた文字は風化して読み難くなっていますが、目を凝らすと「大正十五年三月…成?」と読めるでしょうか。西暦1926年ということは、少なくとも今から100年弱前には川が流れていたことになりますね。

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さらに欄干のすぐそばに砂坂地蔵尊という祠があり、その案内板を読むと、かつてすぐ近くに白須川が流れており、その川原から地蔵尊が発掘されたと書かれています。
ということは、あの欄干跡が白須川の橋だったことになるでしょうか。ただし残念ながら、前述のように川はかなり昔に埋められてしまった為、Googleマップなどで見ても白須川の存在は確認することが出来ません。

そこで「現在の地図で確認できないなら、もっと古い地図を探せば白須川が載っているのでは?」と、うちにある終戦後の1946年に米軍が作成した横須賀市街の地図を探してみました。
すると…

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この地図の作成にあたり、米軍が何の地図を参照したかは不明ですが、どうやら元の地図は昭和初期頃の市街図らしく、白須川の名称こそ無いものの確かに画面中央を川が流れているのが確認できます。
これをGoogleマップの航空写真上で、川の跡と思わしき道路と重ねてみたのがこちらとなります。


中央の赤いマーカーが欄干跡で、青いラインが川の跡らしき道路(路地)になるでしょうか。
これを参考にして、後日何か痕跡でもないかと現地へ確認しに行ってみました。

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ます欄干(赤いマーカー)から南(下)へ歩いて行きますが、ご覧のように曲がりくねった路地は何となく川っぽい感じもしますね?

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さらに先へ進むと、やがて京浜急行の線路が通る土手へと突き当り、道は終わってしまいます。 ですが古い地図上では、昭和初期に線路が通った後もしばらく川は存在していたようなので、ひょっとすると草に隠れた土手の中に水路のトンネル跡が残っているのかもしれません。

というわけで、川の跡は一旦ここで途切れたため、この先の土手の反対側に行ってみます。

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線路を越えた反対側を歩いてみると、こんな感じの川だったような道がありました。おそらくこれが白須川の跡なのでしょう。

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ですが残念ながら、道の南側は1970年代後半にマンションや大津中学校が建てられてしまい、その時点で川の痕跡は一切なくなってしまいました。

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現在はマンションと中学校の敷地になっていますが、ここは明治時代から終戦にかけては海軍刑務所、終戦後から1978年まで横浜刑務所横須賀出張所となっていました。 その為、敷地内に何時ごろまで暗渠などで川が残っていたか、私が調べた限りではよくわかりませんでした。

さらに川の跡を探して最後のポイントへ向かいます。

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場所は大津中学校を越えて、京急久里浜線の線路が通る土手を越えた南側。 この四角いトンネルは、私が知る限り刑務所だった1970年代から埋められていましたが、道路の右側を見ると、なんとなく川を埋めたような土の跡が見て取れます。

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こんな感じで、川の跡は個人宅の玄関を作る際に埋められてしまったようですが、その少し先の草木が茂っている場所まで行くと……。

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ここに来てなんと! ようやく川…というか水路のあった痕跡が見つかりました。 さらにこのちょっと先には〜

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かつて水路に架かっていた石橋の跡が! すっかり埋められだいぶ劣化していますが、ここまで白須川らしき痕跡が残っているのは、欄干を除けば恐らくここだけでしょう。ちなみに橋の先は大津公園のテニスコートの空き地となっており、戦後ずっと宅地化などされないまま放置されていたため、このように壊されることもなく残ったと思われます。

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水路は橋のさらに先、古地図ではテニスコート方向、もしくは大津グランド方向まで伸びていたような感じがするのですが、ここから先はもう何も残っていませんでした。


そんなわけで、今回のちょっとした古い川探しは如何だったでしょうか?
この小さな水路跡が果たして白須川だったのかは確定出来ませんでしたが、現地を歩いてみると確かに古地図にあった川が流れていた痕跡を見ることが出来て、個人的に非常に興味深い散策結果となりました。
posted by acj@管理人 at 08:40| Comment(3) | TrackBack(0) | 横須賀の歴史

2016年03月11日

横須賀の今と昔(14) 新日本風土記「横須賀」放映記念

継続は力なりと言いますが今年で8年目、もはやライフワークとなった感もある、横須賀市内の今と昔の場所を撮影して記録する作業ですが、すでに撮影場所は100箇所を超えてなお、今も月ペースで増え続けていたりします。

今回は最近撮った写真の中からその一部を、新日本風土記「横須賀」放映記念ということで、上下分割した今昔写真に加工してみました。
上が現在で下がおおよそ1950年代前半です。

横須賀今昔写真

割合的には、やはり当時の米兵が数多く撮影した朝鮮戦争期のドブ板通りが中心になりますね。当時カラー写真は、個人だと米軍兵士くらいしか撮影できなかったので、被写体が彼らがよく行った歓楽街や酒場などに偏ってしまいがちなのは仕方ありません。
ちなみに彼らが勤務していた軍港や米軍基地内については、ある程度の形にして当サークルの同人誌で発表済みだったりしますが、基地内の今の写真を撮るのが難しいため、ライブラリ化はなかなか進まないのが現状ですね。

横須賀今昔写真

ローズ商会は今も営業している店舗ですし、周辺の建物自体も割と当時のまま残っているので、まだそこまで劇的に変化したようには見えないでしょうか。

横須賀今昔写真

逆に劇的に変化したのは汐入駅前ですね。このあたりは1990年代の大規模再開発で旧EMクラブが取り壊され芸術劇場やショッパーズが建てられたりと、古い建物が軒並み姿を消したので、もはや写真の中にしか昭和の風景は残されていません。
この写真も、奥に見える店の窓と京急線のトンネルが写っていなければ、正確な位置が特定出来なかったと思います。

横須賀今昔写真

ショッパーズ駐車場出入口前から汐入駅方向を撮影。中央の奥に市民会館が健在なので、年配の方が見ると懐かしくなる光景かもしれないです。右端の古い店舗は、現在も銃砲店として健在ですが、その右横の旅館新井閣は取り壊されて今はガストの入ったビルになっています。

横須賀今昔写真

最後に懐かしいさいか屋の2代目ビル、右の三笠通りアーケードが完成する前の時代の撮影です。現在さいか屋の跡地は駐車場となり、奥にはタワーマンションが2棟と、ここも半世紀で景色がだいぶ変わった場所のひとつですね。


というわけで、ちょっとだけでしたが横須賀市内今昔写真はいかがだったでしょうか。
実はこれら画像のように、上下に今と昔の写真を並べて1ページにしたのを集めて、いつかサークルで同人誌にしてもいいかなと思っているのですが、なかなか実現までの道程は遠く……これら集めた写真が活用されるのはもう少し先のことになりそうです。

posted by acj@管理人 at 10:04| Comment(3) | TrackBack(0) | 横須賀の歴史

2014年03月16日

横須賀の今と昔(13) 根岸町の庚申塔

すでにタイトルでネタバレになっていますが…
今回は「まさかこんな場所のカラー写真が残ってたの?」というようなネタです。

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まずこの画像ですが、昭和20年代後半に撮影された田んぼの写真で、これが横須賀周辺を撮影した一連のフィルムの中の1つでなければ、横須賀とすら気づかず永久にスルーされていたでしょう。 ただし横須賀市内とわかっていても、単なる田植えの情景から撮影場所まで特定するのは容易ではありません。

そう、普通なら…

しかしこれを御覧ください。
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画像の左上に写っていた庚申塔、今回はこれが撮影場所特定の決め手となりました。
下は現在の同じ庚申塔を撮ったものですが、この配置と並びを比べると一目瞭然ですね。
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この庚申塔を解説した市のWebサイトを参照すると、現存する15基の庚申塔は享保9年(1724)から昭和47年までに建てられたもので、今の写真の前列右から4番目(一番背が高い)の庚申塔が、昔のフィルムの左端に写った庚申塔になるわけです。 (その左隣りの庚申塔は昭和47年建立で、フィルム撮影時には存在していない)


より大きな地図で 根岸町の庚申塔 を表示
現在の場所は根岸町1丁目となりますが、航空写真で見ても田んぼなど影も形もなく、庚申塔がなければ絶対に特定することは出来なかったでしょう。

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現地の撮影場所付近から〜
庚申塔はミニストップ裏の路地にあり、駐車している軽トラックの正面付近がその位置になります。

それにしても、文献や終戦直後の米軍が撮影した航空写真で、かつてこの周辺が田んぼだらけだったことは知っていましたが、やはりカラーそのままで情景を見せられるとインパクト違いますね。

posted by acj@管理人 at 14:36| Comment(0) | TrackBack(0) | 横須賀の歴史